ドゥルーズが批判する現象学の系譜 - フッサールからサルトル、そしてドゥルーズへ

現象学は、20世紀初頭にエトムント・フッサールが創始した「事象そのものへ」向かう哲学的方法であり、以後の大陸哲学のほぼ全体に決定的な影響を与えました。フッサールが確立した志向性・現象学的還元といった方法は、ハイデガーによって存在論へと組み替えられ、サルトルにおいては実存主義として大衆化し、メルロ=ポンティにおいては身体と知覚の哲学として展開されます。そして20世紀後半、ジル・ドゥルーズはこの現象学の伝統そのものを批判の対象とし、主観を前提としない内在の哲学を打ち立てることで、現象学から一歩踏み出した地点に立ちました。

この記事では、フッサールの志向性・現象学的還元・生活世界という基本概念から説き起こし、ハイデガーによる現存在の分析、サルトルの即自・対自の存在論と実存主義、メルロ=ポンティの身体論を経て、最終的にドゥルーズが現象学をどのように乗り越えようとしたのかまで、現象学という一つの太い流れがどのように枝分かれし、変容していったのかを概観します。

フッサールの現象学 - 事象そのものへ

志向性

エトムント・フッサール(1859-1938)は、数学者から出発し、師フランツ・ブレンターノの「志向性」概念を受け継いで現象学を創始しました。志向性とは、意識が常に「何ものかについての意識」であるという性質を指します。知覚は何かを知覚し、想像は何かを想像し、判断は何かについて判断する、というように、意識は対象と切り離しては存在しえないというのがフッサールの基本的な出発点でした。1900-01年の『論理学研究』では、この志向性の分析を通じて、心理学主義(論理法則を心理現象に還元する立場)を批判し、意識の構造そのものを厳密に記述する学としての現象学の基礎を築きます。

現象学的還元とエポケー

1913年の『イデーンI』でフッサールが提示したのが、現象学的還元という方法です。私たちは日常、対象が意識の外に実在するという前提(自然的態度)のもとで生きていますが、この存在措定をいったん「カッコに入れて」判断を保留すること(エポケー、判断中止)によって、対象がいかにして意識に「与えられているか」というその現れ方そのものを純粋に記述できるようになる、とフッサールは考えました。あわせて、個々の事実的な経験から出発しつつ、その本質(エイドス)を直観的に取り出す「本質直観」の方法も提示され、現象学は個別事例の寄せ集めではなく本質学として構想されます。この還元によって開かれる領域が「超越論的主観性」であり、フッサールにとって世界の意味はすべて、この超越論的主観性による構成の産物として捉え直されることになりました。

生活世界

最晩年の1936年、ナチス政権下で公刊の道を絶たれつつあった中で著された『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』において、フッサールは「生活世界(Lebenswelt)」という概念を導入します。近代科学は数学的に理念化された自然を対象とすることで大きな成功を収めた一方、その理念化に先立つ、私たちが日常そのなかで生きている前科学的で具体的な世界を見失ってしまった、とフッサールは診断しました。この生活世界という後期の視座は、超越論的主観性による構成という初期の枠組みを保ちながらも、抽象的な意識分析から具体的な世界経験へと関心を大きく広げるものであり、後続の現象学者たちに広く受け継がれていくことになります。

ハイデガーへの継承 - 現象学から存在論へ

マルティン・ハイデガー(1889-1976)はフライブルク大学でフッサールの助手を務め、フッサールから直接に現象学の方法を学びました。しかし1927年の主著『存在と時間』でハイデガーが取り組んだのは、フッサールが後景に退けていた「存在とは何か」という問い(存在問題)そのものであり、この点で二人の哲学は決定的に袂を分かつことになります。

現存在の分析

ハイデガーは、存在の意味を問うにあたって、自らの存在をつねに問題にしながら生きている特異な存在者、すなわち人間を「現存在(Dasein)」と呼び、その実存論的な構造を分析することから出発しました。現存在は、まず認識する主観として世界の外に立ち、その後で対象と関係を結ぶのではなく、そもそも最初から世界のただなかに投げ込まれて存在している、というのがハイデガーの基本的な洞察です。

世界内存在

この事態をハイデガーは「世界内存在(In-der-Welt-sein)」と定式化し、デカルト以来の主観・客観の二元論そのものを乗り越えようとしました。道具は理論的な観照の対象としてではなく、まず「手許にあるもの」として日常の気遣いのなかで出会われるという「道具連関」の分析や、死へと関わる存在としての現存在が不安(Angst)のうちで自らの固有な可能性に直面するという「死への存在」の議論は、フッサールの意識分析を大きく踏み越え、現象学を実存論的な存在論へと組み替えるものでした。なお『存在と時間』の初版はフッサールに献呈されていましたが、ユダヤ人であったフッサールへの献辞は1941年の版から出版社の圧力により削除されており、両者の哲学的な離反は、ナチス政権下での個人的な断絶とも重なり合っています。

サルトルの実存主義的現象学

ジャン=ポール・サルトル(1905-1980)は、エマニュエル・レヴィナスの解説書を通じてフッサール現象学に触れ、1933年から34年にかけてベルリンのフランス学院に留学してフッサールとハイデガーの現象学を本格的に学びました。

自我の非人称性

サルトルは早くも1936年の論文『自我の超越』で、フッサールが超越論的主観性の核に置いた「純粋自我」を批判し、意識はそれ自体としては非人称的な自発性にほかならず、「自我」はむしろ意識の対象として世界のうちに現れるものだと論じます。この批判は、フッサールの構成する主観性の哲学から距離を取りつつ、ハイデガーの実存論的な視座をフランス的な文脈で受け止め直す出発点となりました。

即自と対自

1943年の大著『存在と無』において、サルトルは存在を「即自存在(en-soi)」と「対自存在(pour-soi)」の二つに区分します。即自存在とは、事物のように、それがそれであるところのものとして充実しきった存在の様態であり、対自存在とは、意識のように、つねに自己と一致せず自己から距離を取る「無」を内に含んだ存在の様態です。意識は対自であるがゆえに絶えず自己を無化し、既存のあり方に縛られない自由な存在たらざるをえない、というのがサルトルの存在論的な自由論の骨格でした。この自由から目を背け、あたかも自分が物のような即自的な存在であるかのように振る舞うことを、サルトルは「自己欺瞞(mauvaise foi)」と呼んで批判します。

実存は本質に先立つ

1945年の講演をもとにした『実存主義とは何か』では、この存在論が「実存は本質に先立つ」という有名な命題に要約されます。ペーパーナイフのような人工物はあらかじめ用途(本質)が定められてから作られるのに対し、人間はまず何の本質も持たずにこの世界に存在し始め、みずからの選択と行為を通じて事後的に自己の本質を作り上げていく、とサルトルは説きました。この自由と責任の哲学は、みずからの状況に主体的に関与していく「アンガージュマン」の思想と結びつき、戦後フランスの思想界のみならず大衆文化にまで広く浸透していくことになります。

メルロ=ポンティと身体の現象学

モーリス・メルロ=ポンティ(1908-1961)は高等師範学校でサルトル、シモーヌ・ド・ボーヴォワールと同時代を過ごし、1939年、フッサール没後にルーヴァンに設立されたばかりのフッサール文庫を訪れて未公刊草稿を閲覧するなど、フッサール後期の生成的現象学を早くから深く吸収した哲学者です。

知覚の現象学

1945年の主著『知覚の現象学』でメルロ=ポンティが批判の的としたのは、感覚与件の集積として知覚を説明する経験論と、知的な判断の構成物として知覚を説明する主知主義の双方でした。彼によれば、知覚とは対象についての判断に先立って、すでに世界へと意味を持って開かれている根源的な経験であり、この知覚の場を成り立たせているのが「身体」にほかなりません。

身体図式

メルロ=ポンティは、身体を単なる物理的対象(客体としての身体)とも、意識が操作する道具とも見なさず、世界のうちに住み込み、世界へと関わっていく主体そのものとしての「身体図式(schéma corporel)」を提示しました。手を伸ばして物を掴む、歩いて場所を移動するといった行為において、私たちは対象の位置を計算してから動くのではなく、身体そのものがすでに空間や状況を知っている、という洞察です。これはフッサールの超越論的主観性を身体という具体的な次元に降ろし直す試みであると同時に、後年の『見えるものと見えないもの』(1964年、遺稿)における「肉(chair)」の存在論へと接続され、主観と客観、見る者と見られる者との絡み合い(交叉配列、キアスム)を主題化するに至ります。

ドゥルーズと現象学の乗り越え

ジル・ドゥルーズ(1925-1995)は、若き日にはサルトルの自由の哲学に強い影響を受け、後年「私にとってサルトルは師であった」と述べているように、実存主義から出発した哲学者でした。しかし彼の哲学が成熟するにつれて、その関心はフッサール以来の現象学の伝統そのものへの批判へと転じていきます。

現象学批判

ドゥルーズが晩年フェリックス・ガタリと著した『哲学とは何か』(1991年)では、現象学は志向性という概念によって、結局のところ意識(主観)が世界(客観)へと素朴に関わり合うという、常識的な「見解(オピニオン)」の構造を哲学のうちに温存してしまっている、と批判されます。ハイデガーが世界内存在によって主客二元論を克服しようとしたにもかかわらず、そこにはなお「現存在」という一つの特権的な審級が残っており、経験を可能にする条件を、経験する当のもの(主観)に似せて考えてしまっているという点で、ドゥルーズにとって現象学はカント以来の超越論哲学の限界を共有していました。

超越論的経験論

これに対してドゥルーズが1968年の主著『差異と反復』で提示したのが、「超越論的経験論」という立場です。カントが経験を可能にする条件を、あらかじめ経験に似せて(主観の能力に対応する形で)考えたのに対し、ドゥルーズは経験の条件を、現に生起する経験そのものより広く、かつそれとは異質な発生の場、すなわち前個体的で非人称的な「差異」の場に求めます。ここでの差異は、同一性を持った項と項のあいだの相対的な違いではなく、あらゆる同一性に先立ってそれ自体として存在する差異であり、意識や主観はむしろこの差異の場から二次的に発生してくるものとして位置づけ直されます。

内在の哲学

この立場は、スピノザ、ニーチェ、ベルクソンといった、現象学の系譜とは異なる哲学者たちを主たる参照先とする、超越を一切認めない「内在の哲学」として展開されます。フッサールの現象学的還元が超越論的主観性という一つの審級へと世界を還元していったのに対し、ドゥルーズは、あらゆる審級に先立つ非人称的で前主観的な「一つの生(une vie)」(1995年の同名の遺稿的論文で論じられる概念)の平面に哲学を置こうとしました。フッサールからサルトルへと受け継がれてきた「主観がいかに世界へと関わるか」という現象学の問いそのものを退け、主観なき生成の哲学を打ち立てた点で、ドゥルーズは現象学の伝統の内部からではなく、その外部から現象学を乗り越えようとした哲学者だったと言えるでしょう。

結論

フッサールが「事象そのものへ」という標語のもとに切り開いた現象学は、志向性の分析、現象学的還元、生活世界という一連の方法と概念を通じて、意識に現れる世界の意味構造を厳密に記述する試みでした。この方法はハイデガーによって存在論の問いへと組み替えられ、サルトルにおいては自由と責任の実存主義として、メルロ=ポンティにおいては身体と知覚の哲学として、それぞれ独自の展開を遂げます。そして20世紀後半、ドゥルーズは主観を経験の出発点に置くという現象学に共通する前提そのものを退け、非人称的な差異の哲学によってこの伝統の外へと踏み出しました。フッサールからドゥルーズに至るこの系譜は、一つの学派の単純な発展史というより、「主観と世界の関係をどう捉えるか」という問いをめぐって哲学が何度も自らを組み替え続けてきた、20世紀大陸哲学の中心的なドラマそのものだったと言えます。


参考文献