古代ギリシアの哲学者アリストテレス(前384-前322)は、その主著の一つ『形而上学』(Metaphysica)第4巻(Γ巻)において、「存在としての存在」を研究する学、すなわち後に「第一哲学」と呼ばれることになる学の中心的な原理として、矛盾律(無矛盾の原理)を論じました。「同じものが同じ観点のもとで同時に属し、かつ属さないことは不可能である」というこの原理を、アリストテレスは通常の意味での論証によってではなく、相手の主張そのものを手がかりとする独特な論駁(エレンコス)の手続きによって擁護し、あわせてΓ巻の後半では排中律にも言及しています。これに対し、しばしばこれらと並べて「思考の三法則」として語られる同一律は、アリストテレス自身のテクストのなかでは矛盾律・排中律のような独立した原理として明確に定式化されているわけではなく、後世の論理学の伝統のなかで整理・付加されていったものです。
この記事では、まず『形而上学』という書物とΓ巻の位置づけを確認したうえで、矛盾律の三つの定式化、これを直接論証することができない理由と、論敵自身の言論と行為を手がかりとする独自の論駁の手続き(エレンクティコス論証)、ヘラクレイトスとプロタゴラスに対する反駁、排中律の定式化を順に見たうえで、同一律という原理がアリストテレスのテクストとその後の論理学史のなかでどのように位置づけられてきたのかを概観し、最後に20世紀にジル・ドゥルーズが『差異と反復』において展開した、同一律そのものを標的とする批判を検討します。
『形而上学』とΓ巻の位置づけ
「存在としての存在」を研究する学
アリストテレスの『形而上学』は、後世の編纂者によってΑ・α・Β・Γ・Δ…とギリシア文字で番号を振られた14巻から成る著作群であり、そのうち第4巻にあたるΓ巻の冒頭は、「存在としての存在(ト・オン・ヘイ・オン)を研究し、それに即自的に属する諸性質を研究する一つの学が存在する」という有名な一文から始まります。個々の存在者のある部分だけを切り取って研究する幾何学や医学のような個別諸学とは異なり、この学は存在するものすべてに共通する、存在するかぎりでの存在そのものを対象とする点で、他のどの学よりも普遍的な学であるとされ、これがのちに「第一哲学」あるいは「形而上学」と呼ばれる学の輪郭を与えることになります。
矛盾律が「もっとも確実な原理」とされる理由
アリストテレスは、存在としての存在を研究する学であるならば、存在するものすべてに妥当する公理、とりわけ数学の諸学がそれぞれの領域で無反省に前提しているだけの「共通の公理」についても、この第一哲学こそが根拠を問うべきだと論じます。そしてその筆頭に置かれるのが矛盾律です。個別諸学がそれぞれの対象領域を扱う際に暗黙のうちに前提している原理を、あらゆる存在者に妥当する仕方でそれ自体として主題化することこそ、存在としての存在を研究する学に固有の仕事だ、というのがΓ巻の基本的な構えです。
矛盾律(無矛盾の原理)
三つの定式化 - 存在論的・論理的・心理的
矛盾律そのものは、Γ巻第3-4章において複数の仕方で定式化されます。もっとも基本的なのは「同じものが、同じ観点のもとで、同時に、同じものに属し、かつ属さないことは不可能である」という存在論的な定式化(1005b19-20)であり、これは事物そのものについての規定です。これと並んでアリストテレスは、「あるものについて、それがそうでもあり、そうでもないと真に主張することはできない」という言明・命題のレベルでの論理的な定式化、さらには「同じ人が同時に、あることがそうでありかつそうでないと考えることは不可能である」という信念のレベルでの心理的な定式化も提示しており、事物・言明・思考という三つの水準にまたがる原理として矛盾律を位置づけている点が特徴です。
論証不可能性 - 論駁による証明という方法
矛盾律はあらゆる論証がその妥当性を保証するために暗黙のうちに前提している、いわば最も基礎的な公理であるため、これをさらに他の何かから導き出して論証することはできません。もしある論証によって矛盾律を証明しようとすれば、その論証自体がすでに矛盾律を前提としてしまっている以上、これは循環に陥るか、あるいは無限に遡行するほかないからです。そこでアリストテレスは、矛盾律を積極的に論証する代わりに、これを否定する論敵自身の言論や行為を手がかりとして反駁する「論駁による証明(アポデイクシス・エレンクティケー)」という独自の方法を用います。その具体的な手続きについては、次章で詳しく検討します。
エレンクティコス論証(論駁による証明)
第一原理を直接論証することの不可能性
矛盾律のような第一原理をめぐる証明が通常の論証と異なる性格を持たざるをえないのは、あらゆる論証がすでに矛盾律を前提として成り立っている以上、これを他の何かから導出しようとすればかならず循環か無限遡行に陥ってしまうからです。アリストテレスは、あらゆる事柄について論証を要求すること自体が、そもそも論証というものの性格についての無知にほかならないと述べ、第一原理については通常の論証(アポデイクシス)の代わりに、それを否定する論敵を相手取った論駁(エレンコス)によってこれを証明する、性質の異なる証明の仕方が要求されると論じます。
言論による論駁 - 「何かを意味する」ことの要求
論駁による証明の出発点となるのは、論敵に対して、自分自身にとっても相手にとっても何ごとかを意味するように(セマイネイン・ティ)、ただ一言でもよいから発言することを求める、という手続きです(1006a11-15)。もし論敵がこの要求そのものを拒み、いかなる言葉によっても何も意味しようとしないのであれば、そのような相手との対話はそもそも成り立ちようがありません。アリストテレスは、そのように語ることそのものを拒む者は、もはや植物と何ら異なるところがない、というよく知られた言い回しでこうした相手を対話の外に置きます。逆に言えば、論敵がひとたび何らかの言葉を発し、それによって何かを意味しようとした時点で、彼はすでに論駁の土俵に立たされていることになるのです。
一つを意味することの含意 - 意味の固定性
つぎにアリストテレスが求めるのは、論敵が用いる言葉が、多くのことをではなく、ただ一つのことを意味する(ヘン・セマイネイン)のでなければならない、という条件です(1006a31-34)。たとえば「人間」という語が「二足の動物である」という一つの規定を意味するのだとすれば、この語を用いる者は、暗黙のうちに、あるものが人間であるとはこの一つの規定を満たすことであってそれ以外ではない、ということを認めてしまっています。もし逆に、ある語が同時に一つのことをもその否定をも等しく意味してよいのだとすれば、述定という行為そのものが意味を失い、あらゆる言明は互いに区別のつかないものになってしまうでしょう。アリストテレスはこの「一つを意味すること」の要求から、論敵は言葉を用いて何かを主張しようとするかぎり、その主張とその否定とを暗黙のうちに区別せざるをえず、この区別こそが矛盾律にほかならない、と結論づけます。
本質の一性への帰結
アリストテレスはさらにこの議論を、語の意味の固定性という論点から、事物の本質(ト・ティ・エーン・エイナイ)の一性という論点へと拡張します。「人間である」ということが、たまたま人間に伴う偶有的な性質(たとえば「音楽的である」)ではなく、人間をまさに人間たらしめている本質を意味するのだとすれば、同じ主語について、人間であることとその本質を欠くこととが同時に真であることはできません。ここでアリストテレスは、あらゆる事物があらゆる性質を同時に併せ持つとしたアナクサゴラスの「万物は渾然一体である(ホムー・パンタ・クレーマタ)」という説にも触れ、この種の考え方は、そもそも何ものかを何かとして名指し、それについて語るといういとなみ自体を不可能にしてしまうと批判します。
行為による論駁 - メガラへの道と井戸を避ける者
最後にアリストテレスは、矛盾律を言論によってではなく、論敵自身の行為によって論駁するという、もう一つの手続きを示します(1008b12-19)。もし本当にあらゆる事柄について矛盾する二つの述定が等しく真でありうるのだとすれば、メガラへ行くべきだと考えている人にとって、実際に歩いてメガラへ向かうこととじっと家にとどまることのあいだには、何の違いもないはずです。しかし現実には誰もそのようには行動せず、また誰も、井戸や崖がそこにあるかないかが等しくどちらでもよいことであるかのように、平然とそこへ歩み入ったりはしません。人が実際にどう行動するかを見れば、たとえ言葉のうえでは矛盾律を否定してみせたとしても、その当人が実践においてはつねにこの原理を前提して生きていることが明らかになる、というのがこの行為による論駁の要点です。
ヘラクレイトスとプロタゴラスへの反駁
万物流転説批判
アリストテレスが矛盾律の論敵として名指すのは、まず「万物は流転する」と説いたとされるヘラクレイトスです。あらゆるものが絶えず生成変化しているのであれば、ある瞬間には同じものが相反する二つの性質をともに帯びていることになりかねず、これは矛盾律に反するように見えます。これに対しアリストテレスは、ヘラクレイトスの主張を字義通りに受け取れば、そもそも語ることも思考することも不可能になってしまうのであり、ヘラクレイトス自身、実際にはそのように信じて語っていたわけではないだろうと指摘します。
人間尺度説批判
第二の論敵として挙げられるのが、「人間は万物の尺度である」というプロタゴラスの命題に代表される相対主義です。同じ蜂蜜が、健康な人には甘く、病人には苦く感じられるように、ある事物についての相反する知覚や判断がそれぞれの人にとって等しく真であるとするならば、矛盾律は成り立たないように思われます。アリストテレスはこれに対し、そうした感覚の相対性を認めたとしても、そこから直ちに「同じものが同時に甘くもあり苦くもある」という事態そのものが成り立つわけではなく、あくまで異なる主体における異なる感覚状態が問題になっているにすぎないと応じ、感覚の多様性と矛盾律の妥当性とは矛盾しないと論じます。
排中律
排中律の定式化
Γ巻の後半(第7章)では、矛盾律と並ぶもう一つの原理として、「矛盾する二つの言明の中間項は存在しえず、一つの主語について、ある一つの述語を肯定するか否定するかのいずれかでなければならない」という排中律が定式化されます(1011b23-24)。アリストテレスはこれを、先に論じたヘラクレイトス的な立場、すなわち「あるものはある意味である一方、別の意味ではない、というよりもむしろ、その中間の何かである」とする立場への反駁のなかで導入しており、存在と非存在のあいだに第三の中間状態を認めようとする発想を退けるための原理として位置づけています。
矛盾律との関係
矛盾律が「肯定と否定が同時に成り立つことはない」という原理であるのに対し、排中律は「肯定と否定のどちらか一方は必ず成り立つ」という原理であり、両者は互いに独立でありながら補い合う関係にあります。矛盾律が両立不可能性を、排中律が網羅性を主張するというこの区別は、後の論理学において両者が別個の原理として扱われる際の基礎になりましたが、アリストテレス自身のΓ巻の議論においては、この二つは「中間項の否定」というひとまとまりの主題のなかで、明確に切り分けられないまま論じられている面もあります。
同一律をめぐって
アリストテレスにおける同一律
興味深いことに、「あるものはあるものである」という、今日「同一律」として矛盾律・排中律と並べられる原理は、Γ巻において独立した公理として定式化されているわけではありません。アリストテレスは『形而上学』のほかの箇所や『分析論後書』などで、あるものがそれ自身と同一であること、およびそれがそれ自身の本質(ト・ティ・エーン・エイナイ)と同一であることについて論じてはいますが、これを矛盾律と並ぶ独立した「思考の法則」として掲げているわけではなく、同一律はむしろ矛盾律が成り立つための前提、あるいは矛盾律の言い換えとして扱われている、と見るのが実情に近いでしょう。
後世における「思考の三法則」としての定式化
同一律・矛盾律・排中律を「思考の三法則」としてひとまとまりに定式化する発想は、中世スコラ哲学における公理の整理や、ライプニッツによる十分理由律との対比のなかでの取り扱いを経て、19世紀のヨーロッパの論理学教科書において確立したものです。したがって、この記事の主題である「アリストテレスの同一律・矛盾律・排中律」という括り方そのものが、実際にはΓ巻を中心とするアリストテレス自身の議論(そこでの主役はあくまで矛盾律であり、排中律がそれに続く)と、後世の論理学史がそこに同一律を加えて整理し直した結果とが、重ね合わされたものであることに注意が必要です。
ドゥルーズによる同一律批判
表象の四つの根 - 同一性への差異の従属
20世紀に入ると、同一律という原理そのものを標的とする批判も登場します。ジル・ドゥルーズは『差異と反復』(Différence et répétition, 1968年)において、プラトン以来の西洋哲学が一貫して同一性を第一次的なものとして扱い、差異をそこからの派生物(同一なものからの隔たりや欠如)としてしか捉えてこなかったと指摘します。ドゥルーズによれば、この「表象(représentation)」の体制は、概念における同一性・述語における対立・判断における類比・知覚における類似性という「四つの根」によって差異を飼い慣らしており、この枠組みのもとでは、あらかじめ措定された同一的な概念や範疇を媒介にしてしか、事物のあいだの違いは捉えられません。そしてドゥルーズは、矛盾律もまた、この同一性を保つために差異を単純な対立(あるかないか)へと縮減してしまう、表象の体制に属する原理にほかならないと論じます。
存在の一義性と「差異それ自体」
これに対しドゥルーズが対置するのは、中世のドゥンス・スコトゥスに由来し、スピノザとニーチェを介して独自に読み替えられた「存在の一義性(univocité de l'être)」という考え方です。存在はあらかじめ同一的な類や種へと分割されたうえで、それぞれの個体に類比的に配分されるのではなく、存在を個体化するあらゆる差異について、ただ一つの同じ意味で語られる、とドゥルーズは主張します。ここから引き出されるのが、同一性によって覆い隠されるのではなく、むしろあらゆる同一性がそこから事後的な効果として産出されてくる、根源的な審級としての「差異それ自体(différence en soi)」という発想であり、ドゥルーズはこの立場からニーチェの永劫回帰(éternel retour)についても、「同じもの」が回帰するという通俗的な解釈を退け、回帰するのはそのつど生成する差異そのものであり、同一的なものだけがこの回帰から排除されるのだ、という仕方で読み替えています。アリストテレスが矛盾律を存在としての存在の学の基礎に据えた身振りそのもの、すなわち存在をあらかじめ同一的なものとして前提したうえで思考を組織するという身振り全体を、この意味でドゥルーズの企ては、それに先立つ差異の哲学から相対化しようとする試みとして読むことができます。
結論
アリストテレスは『形而上学』Γ巻において、存在としての存在を研究する第一哲学の課題として、矛盾律を「もっとも確実な原理」と位置づけ、これを存在論的・論理的・心理的な三つの水準で定式化するとともに、通常の論証ではなく、論敵自身の言論(何かを意味することの要求)と行為(メガラへの道の例)を手がかりとする独自の論駁(エレンクティコス論証)によってこれを擁護しました。ヘラクレイトスの万物流転説とプロタゴラスの人間尺度説という二つの相対主義的な立場への反駁を通じて、矛盾律の妥当性を示す議論は、Γ巻後半で定式化される排中律とあわせて、後の論理学における基礎的な公理群の原型となります。他方、これらとしばしば並べて語られる同一律は、アリストテレス自身のテクストのなかでは独立した原理として明示的に定式化されておらず、「思考の三法則」という整った枠組みそのものが、中世から近代にかけての論理学史のなかで徐々に形作られていった後世の産物であるという点、そして20世紀にはドゥルーズが、まさにこの同一律を第一次的なものとする思考の体制そのものを、差異それ自体の哲学から根本的に問い直したという点は、アリストテレスのテクストに立ち返る際に見落とされるべきではありません。
参考文献
- 『アリストテレス全集4 形而上学』アリストテレス著 中畑正志訳 岩波書店 2013年
- 『形而上学』アリストテレス著 出隆訳 岩波文庫(上・下) 1959年/1961年
- 『アリストテレス入門』山口義久著 ちくま新書 2001年
- 『差異と反復(上・下)』ジル・ドゥルーズ著 財津理訳 河出文庫 2007年