1991年に刊行されたジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリ最後の共著『哲学とは何か』(Qu'est-ce que la philosophie?)は、『アンチ・オイディプス』(1972年)『千のプラトー』(1980年)以来20年近くにわたる共同作業の総決算として、「哲学とは何か」という、それまで両者が正面から問うことのなかった問いに真正面から取り組んだ著作です。そこでドゥルーズとガタリは、哲学を「概念の創造」という固有の営みとして定義し直し、これを科学や芸術という他の思考の様態から区別すると同時に、概念が描き出される以前の下地としての「内在平面」、概念に生命を与える媒介者としての「概念的人物」、そして哲学の発生を歴史にではなく地理に求める「哲学地理」という、独自の語彙立てを提示しました。
この記事では、哲学を概念の創造とみなすドゥルーズ+ガタリの基本テーゼから出発し、内在平面・概念的人物・哲学地理という三つの鍵概念を順に検討したうえで、最後に哲学・科学・芸術という三幅対のなかで哲学の固有性がどのように位置づけられているのかを概観します。
概念の創造としての哲学
『哲学とは何か』という書物
ドゥルーズとガタリは1972年の『アンチ・オイディプス』以来、資本主義と分裂症、リゾーム状の思考といった主題をめぐって二人三脚の共同執筆を重ねてきましたが、その二十年近い共同作業のなかで「哲学とは何か」という、いわば足元を問うような問いに正面から答えることはありませんでした。ドゥルーズ自身がのちに、この問いは年老いてから、しかも具体的な答えを出すためというよりは、むしろようやく落ち着いて発することのできる種類の問いだと語っているように、本書は事実上ガタリとの最後の共著となり、フェリックス・ガタリは刊行の翌1992年に世を去っています。
概念とは何か
本書がまず定めるのは、哲学に固有の産物とは「概念(concept)」であり、哲学するとはこの概念を創造することにほかならない、というテーゼです。ここでの概念とは、一般的な表象や抽象的なカテゴリーではなく、プラトンのイデア、デカルトのコギト、カントの超越論的統覚、ライプニッツのモナドのように、それを創り出した哲学者の署名を刻んだ、複数の構成要素が分かちがたく結びついた一つの多様体を指します。概念は世界のどこかに前もって存在していて発見されるのを待っているものではなく、ある問題に応答するかたちでそのつど新たに創造されるものであり、この点で哲学は、あらかじめ存在する真理を発見する営みだとする素朴な哲学観から袂を分かちます。
内在平面
内在の哲学としての出発点
しかし概念は、何もない空白のところに突然出現するわけではありません。ドゥルーズとガタリによれば、あらゆる概念創造に先立って、概念がその上に描き出される下地となる、「内在平面(plan d'immanence)」と呼ばれるものが前提とされています。内在平面それ自体は一個の概念ではなく、いわば概念以前の「思考のイメージ」であり、概念が具体的な形姿を与えられる以前に、哲学者がすでに前哲学的に想定してしまっている絶対的な地平のことです。
超越に抗して
この平面が「内在」と呼ばれるのは、それが神や主観、あるいは国家といった何らかの超越的な審級を平面の外部あるいは頂点に立てることなく、あくまでそれ自体にのみ内在するものとして考えられているからです。ドゥルーズとガタリは、デカルトのコギトやフッサールの超越論的主観性もまた、意識や主観という一つの審級へと世界を折り返してしまう限りで、内在をひそかに何ものかへの内在、すなわち一種の超越へと横滑りさせてしまっていると批判します。内在平面が真に内在的であるためには、それは何ものにも内在せず、ただそれ自身にのみ内在するのでなければなりません。
カオスの上に引かれた切断面
内在平面はまた、無限速度で互いに消え去っては生成する諸々の観念がひしめく「カオス」に対して哲学が引き入れる、一種の切断面としても描かれます。哲学は、このカオスの無限運動をいくらか緩め、そこに一定の無矛盾性(consistance)を持ち込むことによってはじめて、概念を出現させることができます。もっとも、この平面は哲学史を通じてただ一つ存在するわけではなく、それぞれの哲学者は自分自身の内在平面を新たに引き直す(tracer)のであり、その意味で「哲学の歴史」とは、単一の平面上での学説の交代というより、幾つもの異なる平面が幾度となく引き直されてきた歴史だということになります。
概念的人物
ソクラテス、イディオット、ツァラトゥストラ
内在平面の上で概念に運動を与え、それを実際に生き生きと機能させる役割を担うのが、「概念的人物(personnage conceptuel)」と呼ばれる審級です。プラトンの対話篇における「ソクラテス」、デカルトが『省察』で読者に呼びかける「イディオット(白痴)」(クザーヌスに由来する形象)、ニーチェが語らせる「ツァラトゥストラ」や「ディオニュソス」、あるいは「知を愛する者」を意味する「フィロソフォス」という語そのものに含まれる「友(アミ)」といった人物たちは、いずれもこうした概念的人物の代表例としてドゥルーズとガタリが挙げるものです。
概念的人物と心理社会的類型・美的形象との違い
重要なのは、この概念的人物が、歴史上実在した経験的な人物(史実としてのソクラテス)そのものでも、文学や社会学が描き出す「守銭奴」や「嫉妬深い男」のような心理社会的な類型でもなく、また芸術が生み出す美的形象(登場人物や語り手)とも区別される、哲学に固有の審級だという点です。プラトンの対話篇のソクラテスは、歴史上のソクラテスの単なる報告ではなく、プラトン自身が概念を機能させるために創造し、住まわせた哲学的な人物にほかなりません。
思考に運動を与える媒介者
概念的人物は、いわば哲学者と内在平面とのあいだを仲介する者であり、「誰が語っているのか」という問いに対して、経験的な著者その人ではなく、この概念的人物こそが語っている、と答えるべき審級です。ツァラトゥストラが語る事柄は、ニーチェという一人の著者が単に代弁しているのではなく、ツァラトゥストラという概念的人物を通じてはじめて哲学的に生起する出来事なのであり、この意味で概念的人物は、内在平面という抽象的な下地に具体的な動きと生命を与える、哲学に不可欠の媒介者だとされます。
哲学地理
なぜギリシアで哲学は生まれたのか
ドゥルーズとガタリが本書でとりわけ独創的な角度から論じるのが、哲学がなぜエジプトや中国、インドといった古代の大帝国においてではなく、古代ギリシアという特定の場所で誕生したのか、という問いです。これらの大帝国にも、超越的な審級としての国家や宗教と結びついた「賢者(サージュ)」による知恵はすでに存在していましたが、ドゥルーズとガタリによれば、それらは超越に依拠する知であって、内在平面の上で概念を創造する哲学とは区別されなければなりません。
歴史から地理へ
これに対して古代ギリシアの都市国家は、強力な帝国的国家が存在せず、地中海交易を通じて絶えず外部からの移住者や異邦人を受け入れる、相対的に「脱領土化」された社会でした。血縁や氏族の絆から比較的自由な「友」たちが、広場(アゴラ)において対等な立場で議論し競い合う(アゴーン)というこの社会的な環境こそが、超越的な審級に頼ることなく概念を創造する内在の哲学にとっての好適な「環境(ミリュー)」を提供した、とドゥルーズとガタリは論じます。この議論によって彼らは、哲学の発生を思想内容の論理的な継承関係(神話から論理へ、といった)として説明する従来の哲学史記述に対し、むしろ土地や環境、脱領土化・再領土化といった地理的な条件にこそ着目すべきだという「哲学地理(géophilosophie)」の視座を打ち出すことになります。
資本主義ともう一つの哲学地理
さらにドゥルーズとガタリは、この地理的な条件は古代ギリシアに限られた一回限りの偶然ではなく、近代ヨーロッパにおける哲学の再興にも形を変えて反復されていると論じます。すなわち、絶えず既存の領土やコードを解体しながら世界規模で拡大していく資本主義という運動が、かつてのギリシアの都市が備えていた脱領土化的な環境を、より大きなスケールで作り出し、そこに近代哲学が概念を創造するための新たな内在平面を見出した、というのです。この意味で哲学地理は、単に古代ギリシア一回の起源を説明する理論であるにとどまらず、哲学と、それを可能にする社会的・経済的な環境との結びつきそのものを問い直す視座として提示されています。
哲学・科学・芸術という三幅対
本書の後半でドゥルーズとガタリは、哲学をカオスに立ち向かう三つの思考の様態の一つとして位置づけ直します。哲学が内在平面の上に概念を創造するのに対し、科学は「部分観測者」を介して事物のあいだの関数的な関係(ファンクティフ)を、指示の平面(座標系)の上に定着させ、芸術は感覚のブロックとしての知覚態(ペルセプト)と変様態(アフェクト)を、構成の平面の上に作り出す、というように、それぞれの領域はカオスから一定の秩序を切り出す固有の平面と固有の産物を持つ、対等で還元不可能な思考の様態として区別されます。ドゥルーズが晩年しばしば「脳」を哲学・科学・芸術という三者が互いに出会う場として語ったのも、いずれか一つの領域(たとえば心理学や認識論)を特権化して他の二つをそれに還元するのではなく、三者それぞれの固有性を保ったまま、その接合の場を思考しようとする試みだったと言えます。
結論
『哲学とは何か』は、哲学を「概念の創造」という固有の営みとして定義し直すことで、それを科学や芸術から明確に区別すると同時に、この創造がつねに前哲学的な下地としての内在平面と、概念に生命を与える概念的人物という二つの審級を必要とすることを示しました。さらにこの内在平面がどこにでも成り立つ抽象的な条件ではなく、古代ギリシアの都市や近代ヨーロッパの資本主義といった具体的な社会的・地理的環境のなかではじめて可能になるという「哲学地理」の視座は、哲学史を思想内容の内的な継承関係としてだけでなく、それを可能にした外的な環境の歴史としても捉え直すことを要求します。ドゥルーズとガタリがフェリックス・ガタリとの最後の共著において示したこれらの語彙は、哲学という営みそのものを、超越論的な主観にも普遍的な理性にも依拠することなく、内在・人物・環境という三つの次元から根本的に問い直す試みだったと言えるでしょう。
参考文献
- 『哲学とは何か』ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ著 財津理訳 河出文庫 2012年
- 『ドゥルーズ入門』檜垣立哉著 ちくま新書 2009年
- 『千のプラトー - 資本主義と分裂症』ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ著 宇野邦一ほか訳 河出文庫 2010年