日本仏教の歴史

日本の仏教は6世紀に朝鮮半島の百済から伝わって以来、およそ1500年にわたって国家・貴族・武士・庶民それぞれの時代の要請に応じて姿を変えながら受け継がれてきました。奈良時代には国家を鎮護するための学問として、平安時代には密教として、鎌倉時代には庶民の救済を説く実践的な信仰として、それぞれ性格の異なる展開を遂げています。

この記事では、6世紀の仏教公伝から説き起こし、奈良時代の南都六宗、平安時代の天台宗・真言宗、鎌倉新仏教としての浄土宗・浄土真宗・禅宗・日蓮宗の成立、江戸時代の寺請制度による仏教の制度化、そして明治維新の神仏分離・廃仏毀釈という近代の転換点まで、時代を追って日本仏教の歴史をたどります。

仏教伝来と国家仏教 - 飛鳥・奈良時代

仏教公伝

日本への仏教伝来は、『日本書紀』では欽明天皇13年(552年)、『元興寺縁起』などでは欽明天皇7年(538年)とされ、伝来年には2つの説があります。いずれにせよ、百済の聖明王から仏像・経典が朝廷に献上されたことをきっかけに、仏教の受容をめぐって崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏のあいだで政治的な対立が起こりました。587年、蘇我馬子が物部守屋を滅ぼしたことで崇仏派が主導権を握り、仏教は朝廷公認の宗教として定着していきます。

聖徳太子と鎮護国家思想

推古朝で摂政を務めた聖徳太子(574-622)は、『法華経』『勝鬘経』『維摩経』の注釈書とされる『三経義疏』を著したと伝えられ、604年制定の十七条憲法では第二条に「篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり」と明記しました。この時期の仏教は個人の救済よりも、国家の安泰を祈願する「鎮護国家」の思想と結びついて受容された点が特徴です。

奈良時代に入ると鎮護国家思想はさらに制度化され、聖武天皇は741年に国分寺建立の詔を発して国ごとに国分寺・国分尼寺を建立させ、743年には東大寺に盧舎那仏(奈良の大仏)の造立を発願しました。国家財政を傾けるほどの大事業だったこの造立には、行基(668-749)が率いた民間の勧進活動が大きな役割を果たしています。

南都六宗と鑑真

奈良時代の仏教は、現代の「宗派」とは性格が異なり、三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗という「南都六宗」に整理されます。これらは互いに排他的な教団というより、東大寺のような大寺院の僧が並行して学ぶ教学上の学派に近いものでした。各宗が拠り所とした典籍も異なり、三論宗は『中論』『十二門論』『百論』の三論、成実宗は『成実論』、法相宗は『解深密経』や『成唯識論』、倶舎宗は『倶舎論』、華厳宗は『華厳経』、律宗は『四分律』を、それぞれ教学の中心に据えていました。

とりわけ戒律を専門とする律宗の確立には、唐僧・鑑真(688-763)の来日が決定的な役割を果たします。5度の渡航失敗と失明を経て753年に来日した鑑真は、東大寺に戒壇を設けて正式な授戒の制度を整え、のちに唐招提寺を開きました。それまで自称に近かった日本の僧の得度に、初めて国際的に通用する戒律の裏付けが与えられたことになります。

平安仏教 - 最澄と空海

平安時代に入ると、奈良の大寺院と結びついた旧仏教から距離を置く新しい仏教運動が起こります。その中心となったのが、遣唐使とともに入唐した最澄と空海でした。

最澄と天台宗

最澄(767-822)は近江の生まれで、比叡山で修行しました。804年に入唐し、天台山で天台教学を学んで帰国後、比叡山に延暦寺を開いて天台宗を開創しました。天台宗は、『法華経』に『無量義経』『観普賢経』を加えた「法華三部経」を正依の経典とし、これを中心としながら密教・禅・戒律をも統合する「四宗兼学」を特徴とし、鎮護国家の枠組みを保ちつつも、奈良仏教とは異なる独自の戒壇(大乗戒壇)の設立を朝廷に働きかけます。この認可は最澄の没後まもなく下りましたが、南都の既存教団との軋轢は大きく、比叡山は以後も奈良仏教から独立した教学の拠点として発展していきました。 最澄の後継者としては円仁、円珍らがいます。彼らは入唐後、密教を天台宗に伝えました。 天台宗が伝える密教を「台密」と言います。

空海と真言宗

空海(774-835)も最澄と同じ804年の遣唐使船で入唐し、長安の青龍寺で恵果から密教の正統な伝法(伝法灌頂)を受けて帰国します。806年に帰国した空海は、高野山に金剛峯寺を開くとともに京の東寺を拠点とし、真言宗を開きました。真言宗の教義は、大日如来が説いたとされる『大日経』(胎蔵界)と『金剛頂経』(金剛界)という2つの根本経典(両部大経)にもとづき、加持祈祷・曼荼羅・護摩など体系化された密教儀礼を特徴とし、天台宗と並んで平安貴族社会に深く浸透していきます。両者はともに入唐した盟友でしたが、密教経典『理趣釈経』の借覧を空海が断ったことをきっかけに関係が悪化し、以後交流を絶ったという逸話が伝えられています。

鎌倉新仏教

平安末期から鎌倉時代にかけては、末法思想の広まりや戦乱・飢饉を背景に、貴族だけでなく武士や庶民をも対象とした、より実践的で分かりやすい仏教が次々と現れます。これらは総称して「鎌倉新仏教」と呼ばれ、いずれも比叡山で学んだのちに独自の道を歩んだ祖師によって開かれた点が共通しています。

法然と浄土宗

法然(1133-1212)は比叡山での修学ののち、ひたすら「南無阿弥陀仏」と念仏を称えることだけで極楽往生できるとする専修念仏の教えを説き、1175年に浄土宗を開きました。浄土宗が正依とするのは『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の「浄土三部経」で、なかでも法然は、中国浄土教の大成者である善導の『観経疏』(『観無量寿経』の注釈書)にもとづいて専修念仏の根拠を導きました。著書『選択本願念仏集』では、それまでの仏教が前提としてきた戒律の遵守や学問的修行を往生の必須条件から外し、念仏の一行に絞り込んだ点で画期的な思想でした。

親鸞と浄土真宗

法然の弟子・親鸞(1173-1263)はこの専修念仏の思想をさらに徹底させ、「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という悪人正機説で知られる浄土真宗を開きました。自力での善行を積める「善人」よりも、それができないと自覚する「悪人」こそが阿弥陀仏の本願にふさわしい救済の対象だとする逆説的な論理は、著書『歎異抄』(弟子・唯円の編とされる)を通じて広く知られています。親鸞も法然と同じ浄土三部経を教えの土台としましたが、法然が重視した『観無量寿経』よりも、阿弥陀仏の本願そのものを説く『無量寿経』(大経)を根本経典と位置づけ、その解釈を体系化した主著『教行信証』を著しました。親鸞は肉食妻帯を実践して僧の生き方そのものを問い直し、後代の浄土真宗が在家中心の教団として発展する土台を作りました。

栄西・道元と禅宗

禅宗は、文字や経典の解釈よりも師から弟子へ直接伝えられる悟りの体験(教外別伝・不立文字)を重んじる点で、他の鎌倉新仏教とは経典への向き合い方が根本的に異なります。特定の経典を絶対的な所依とはしませんが、伝統的には達磨が所依としたとされる『楞伽経』や、公案の題材として繰り返し引かれる『金剛般若経』などが重んじられてきました。

栄西(1141-1215)は入宋して臨済宗の法を受け、坐禅と公案(師から与えられる問答)による悟りを説いて臨済宗を伝えました。鎌倉幕府の帰依を受けたこともあり、臨済宗は武士階級に広く受け入れられていきます。

もっとも、その後の臨済宗の主流となったのは栄西自身の法系というより、南浦紹明(1235-1309)に始まる系統でした。南浦紹明は入宋して虚堂智愚に学び、帰国後は建長寺などの住持を務め、没後に禅僧として初めて「大応国師」の国師号を朝廷から贈られています。その法を継いだ宗峰妙超(1282-1338、諡号・大灯国師)は1325年に京都に大徳寺を開山し、さらにその弟子・関山慧玄(1277-1361)は1337年に妙心寺を開きました。南浦紹明・宗峰妙超・関山慧玄と続くこの法系は「応灯関(おうとうかん)」と呼ばれ、現在の日本の臨済宗各派はすべてこの系統に連なっています。江戸中期には関山の法系に連なる白隠慧鶴(1686-1769)が出て衰退していた臨済禅を中興したことでも知られ、応灯関の系統は今日にいたるまで臨済宗の中心であり続けています。

一方、道元(1200-1253)は栄西の弟子筋にあたる明全に学んだのち入宋し、只管打坐(ひたすら座禅に徹すること)を核とする曹洞宗を伝えて越前に永平寺を開きました。悟りを得るための手段として坐禅を位置づける他宗と異なり、道元は坐禅そのものがすでに悟りの表れである(修証一等)と説き、この思想は主著『正法眼蔵』にまとめられています。

日蓮と日蓮宗

日蓮(1222-1282)は、鎌倉新仏教の祖師の中でも『法華経』こそが唯一絶対の正しい教えであるとする立場をとり、「南無妙法蓮華経」の題目を唱えることで成仏できると説いて日蓮宗を開きました。1260年の著書『立正安国論』では他宗、とりわけ念仏を邪法として厳しく批判し、これを幕府に提出したことで度重なる弾圧・流罪を招きます。他宗との共存よりも折伏(対立する教えを論破すること)による布教を志向した点は、他の鎌倉新仏教の祖師たちと際立って対照的です。

一遍と時宗

一遍(1239-1289)は、浄土宗の一派である西山派の流れを汲みつつ、1274年に熊野権現からの神託を受けたことを機に独自の布教活動を始め、時宗を開きました。信心の有無や信者の浄不浄を問わずすべての人に念仏札を配る「賦算(ふさん)」と、鉦や太鼓に合わせて念仏を唱えながら踊る「踊り念仏」を特徴とし、生涯にわたって寺を持たず諸国を遊行し続けたことから「捨聖(すてひじり)」とも呼ばれます。時宗も教義の土台自体は法然・親鸞と同じ浄土三部経に置いていますが、一遍は経典の教学的な理解よりも念仏を称える行為そのものを絶対視し、臨終に際しては所持していた聖教(経典・注釈書の類)をすべて焼き捨てたと伝えられています。教団や寺院の組織化よりも遊行と実践そのものを信仰の中心に据えた点に、法然・親鸞の浄土教とは異なる時宗独自の性格が表れています。

中世から近世へ - 一向一揆と寺請制度

蓮如と一向一揆

室町時代、親鸞から8代目にあたる本願寺の蓮如(1415-1499)は、平易な文体の手紙「御文(御文章)」を通じて浄土真宗の教えを北陸・畿内の農民層に広め、教団を飛躍的に拡大させました。この結果、各地の門徒が武装して地域の支配権を握る一向一揆が頻発し、1488年の加賀一向一揆では守護大名の富樫政親を倒して「百姓ノ持タル国」と呼ばれる自治領を約100年にわたって築くまでに至ります。戦国末期には織田信長と本願寺教団(石山本願寺)が10年に及ぶ石山合戦(1570-1580)で激突しており、宗教勢力が世俗の武力を持つに至った日本仏教史上まれな時代でした。

江戸幕府と寺請制度・檀家制度

江戸幕府は、キリシタン禁制を徹底する手段として寺請制度を整備し、すべての民衆をいずれかの寺の檀家として登録させ、寺院がキリシタンでないことを証明する寺請証文を発行する仕組みを作りました。この制度のもとで寺院は、宗門人別改帳の作成を通じて事実上の戸籍管理機関としての行政的役割を担うようになります。信仰の中身よりも家単位での寺への帰属が重視されるようになったこの体制は、江戸期を通じて仏教を全国民に行き渡らせた一方、教義の刷新や布教の熱意という点では停滞を招いたとも指摘されています。

近代仏教 - 神仏分離と廃仏毀釈

明治新政府は1868年、神道国教化を進める方針のもと、神社と寺院、神と仏を明確に区別することを命じる神仏分離令(神仏判然令)を発布しました。これは仏教そのものを排除する意図までは持たない行政命令でしたが、江戸時代を通じて寺院に従属する立場に置かれてきた神職層の反発と結びつき、各地で仏像・仏具・経典を破壊する廃仏毀釈の運動へと発展します。とりわけ薩摩藩や松本藩などでは領内の寺院がほぼ全廃されるほどの激しい破壊が起こりました。

この混乱を経て、仏教界では清沢満之(1863-1903)らによる教団の近代化・思想的な立て直しが進み、寺請制度という国家による強制的な檀家制度を失った仏教は、個人の信仰にもとづく自発的な支持を新たに獲得していく道を模索することになります。

結論

6世紀に国家鎮護の思想とともに伝来した日本仏教は、奈良時代の学問的な南都六宗、平安時代の密教(天台宗・真言宗)、鎌倉時代の実践的な民衆仏教(浄土宗・浄土真宗・禅宗・日蓮宗)という順に、対象とする層と教えの性格を大きく変えながら広がっていきました。江戸時代の寺請制度によって仏教は全国民に行き渡る一方で信仰としての内実を問われるようになり、明治の神仏分離・廃仏毀釈という断絶を経て、近代以降は制度の力ではなく個人の信仰にもとづく宗教として再出発していきます。時代ごとに国家・武士・庶民という異なる担い手からの要請に応え続けてきたことこそが、1500年におよぶ日本仏教史の一貫した特徴だと言えるでしょう。


参考文献